バックナンバー(02年01月〜03月)




辻原康夫 『世界地図から食の歴史を読む方法』 (河出書房新社)
 タイトルがなかなか大仰だが、新書版の気軽に読める本。内容は豊富で、料理、食材、マナーなど、さまざまな視点から食の歴史をオムニバス式に語る。「なぜ?」そうなったかの説明については、納得のいくものもあるし、そうでないものもあるが、たとえばBSEなど食や病をめぐる騒ぎになるたびに、ある種の食の禁忌(もちろんそれとても偶然に過ぎないのかもしれないのだが)に合点がいくこともあって、人間の意味生成の豊穣さに驚く。唐辛子が日本経由で朝鮮に渡り、しかも最初は猛毒扱いされていたなど、意外な事実も。

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ダン・シモンズ 『ダーウィンの剃刀』 (早川書房)
 ダン・シモンズのハイペリオン四部作は、続々と文庫化されていて、確か3作目の『エンディミオン』を書店で見かけた気がするので、まだ読んでいない人は、ぜひ1作目の『ハイペリオン』から読んでみてください。でもSFに興味のない方でも、この『ダーウィンの剃刀』は、一般アクション小説なので大いに楽しめるでしょう。保険調査員が国際的組織的な保険詐欺事件に巻き込まれて、FBIやらなにやら総動員で何とか切り抜けていく大掛かりなストーリーに引き込まれます。それにしても、兄弟が実際に保険調査員ということから、なぜ自動車が、上に道のない山腹に激突して大破しているのか、という出だしから、事故のリアリティが実に興味深いです。死は悲劇的なものですが、話として聞いたときにどうしても滑稽に思えてしまうような不運というか災難というか、世の中にはまことにどのようなことでも起こるものだ、というあたりが、この小説に比類のない彩を添えています。あとは銃やグライダーの薀蓄から、もちろんアクションにロマンス、一気呵成に読ませるシモンズの語り口は完璧。

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ボブ・グリーン 『アメリカン・ヒーロー』 (集英社)
 ボブ・グリーンのコラム集は数多く翻訳されていて、『チーズバーガーズ』のシリーズなどはときどき読み返すこともあるほど好きなのだが、かつて週刊プレイボーイ誌に連載されていたものを単行本化したこのシリーズは、なんとなく買いもらしていた。先日、通りがかりに立ち寄った古書店で、3冊が各200円だったので、すぐに買ってしまった。一冊にひとつやふたつは、どうしても目頭が熱くなってしまう話があり、また逆に噴出しそうになってしまう話もあって、帰りの電車の中で読んでいると困ってしまう。・・・が、どうしても読みたくて読んでしまう。
 で、本書の中にも涙あり笑いありのいろいろな話があるのだが、ここではちょっと考えさせられた話を取り上げてみようと思う。「ホフマンの演技力」という一編である。
 ダスティン・ホフマンが『レインマン』で自閉症者を演じたことは良く知られていると思うが、この映画は臨床関係の専門家でも評価する人は多い。ボブ・グリーンは、ホフマンが映画スターであるよりも役者であること、『卒業』や『クレイマー・クレイマー』といった華やかなスター作のみならず、『真夜中のカーボーイ』やこの『レインマン』のように、役者としての評価が問われる仕事をしてきていることを、深い敬意を持って指摘している。
 この話を読んで、すぐに思いついたのが、オリバー・サックス『レナードの朝』(晶文社)である。こちらもまた、嗜眠性脳炎患者を扱った医学ドキュメンタリーが、見事に映画化された例であるが、90年版の原作の方に「映画になった『レナードの朝』」という一節があって、ここが本編とはまた別に、サックスがロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウイリアムズらとともに過ごしながら、映画が形になっていく過程を興味深く観察した記録としてたいへん面白いのである。デ・ニーロやウィリアムズが、サックスの案内で病院を巡りながら、患者そのものに入りきるようにしてその役を理解していく真摯さに、サックスはしばしば驚嘆している。ウィリアムズは、六人の患者が怒鳴ったり奇妙な話し声をあげたりしている、混乱した病室で過ごした帰りの車の中で、一人一人の声を真似しながら、病室の喧騒を完璧な正確さで再現してしまう。デ・ニーロはパーキンソン症候群を完璧に演じきり、姿勢反射の喪失や注視発作、呼吸発作を演じているときなど、サックスは本物と区別がつかずほとんどパニックになってしまう。彼らはサックスをして「私が俳優に神経学を教えているのではない。俳優が私に教えはじめている」とまで言わせてしまう。
 私がこの話に引かれたのは、ひとつは役者という仕事の凄みである。ショウビジネスやテレビの話題も多く取り上げられているが、それらの話題が却って好対照をなして、すばらしい役者であることがまさにその演技そのものにあるという、当たり前だったはずのことを再認識させられる。もうひとつは、発達障害や精神的な病気が、それを徹底的に演じつくすという役者の技によって、より深く理解されていく可能性に思い至るからである。それによって治療の道筋が見えてくるとは言えない(可能性がないとは言えないが、私は役者でも神経学者でもないので、そこまで言うことはできない)が、おそらくわれわれが共感的理解などという術語を軽々に弄んでいないかを反省する手がかりにはなるだろう。
 ちょっと重い感想になってしまったので、最後に、もっとも可笑しかった「歴史的な、あの日」の、私の記憶も語ってしまおう。そのとき小学校6年生だった私は、友達のK君と校庭の掃除をしていたところに、教室だか職員室だかの掃除当番だったF君が知らせてくれて、大喜びしていたのを覚えている。ただそれがまさにその瞬間だったのか、単にその話をして盛り上がっていたのか、そのあたりがあやふやなのだが・・・。さて、1969年7月20日(日本時間では21日の昼ぐらいか?)、あなたはそのとき何をしていましたか?

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ブライアン・ステイブルフォード 『ホームズと不死の創造者』 (ハヤカワ文庫SF)
 前作『地を継ぐ者』から300年後の設定で、植物に食い尽くされて白骨化した死体が次々と見つかるという殺人事件を追う女性刑事シャーロッ「ト」・ホームズが主人公。ともに事件を追うのは、遺伝子工学を駆使するフラワーデザイナーのオスカー・ワイルド。なかなかスリリングな展開で面白くないわけではないのだが、イギリスのSFに私が勝手に、ついつい期待してしまう重さや深さのイメージが、どうもこの作家の作り出す雰囲気と噛み合わなかった。しかし、本作を読んでいて、はたとひらめいた。そう、これはジェームズ・ボンドの世界なのだ! 奇抜で、もったいぶっていて、気障なのだが、結局はかっこよいので許す、という雰囲気そのもの。そう気づいてからは、007の映画を見ているつもりで読むことにして、十分に楽しめた。なお、このタイトルから本書がSFシリーズだと気づくのが遅れました。背表紙の色で分かるはずなのだが、平積みになっているとね(^^;。

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ミック・ジャクソン 『穴掘り公爵』 (新潮社)
 この小説、もちろんタイトルからカルヴィーノを連想して手を出したことは言うまでもない。しかし、これがなかなか難物であった。実は読み始めてから何度か投げ出しているのだ。木登り男爵がいきなりの奇行から壮大な冒険譚が繰り広げられていくのに対して、こちらは館の周りにトンネルを「掘る」公爵の話ですらなく、要は「掘らせた」わけで、あとはまあちょっとピントの外れた独身の領主の、素っ頓狂ではあるが退屈な日記を読んでいるような気にさせられたからである。しかし、後半にかかると、ちょっとしたミステリーが絡んできて、物語はやがて、多少は予測された狂気と、あまりにも意外なカタストロフになだれ込んでいくのである。全体を通じてちりばめられる衒学もまた楽しみの一つ。モデルになった人物もいるらしいが、どこまで実話に基づいてかかれたものかは知らない。

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苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 (ちくま新書)
 おなじみ苅谷先生の実証的な教育改革分析。世の中の教育談義が幻想というか要するに思い込みに強く左右されていることは驚かないが、たとえば身近な学校改革の校内の議論でさえも、いまだに受験戦争の幻想を当然の前提のごとく振り回されると、辟易の段階を過ぎてほとんど意気阻喪してしまう。本書によれば、これまでの教育改革は、勉強する子にゆとりを与えたのではなく(というか勉強をする子の多くは勉強のできる子だったので、もともとゆとりはあったのである)、もともと勉強しない子をますます勉強させなくしてきた(つまりそういう子はますます勉強ができなくなるので、ゆとりを与えるためには勉強をさせない以外に方法がなくなる)ことが、たいへんよく理解できる。これはかつて職業高校や中堅の普通高校に勤務してきた自分の教師としての実感、そして中学生と小学生の子供たちの父親としての実感に、まったく合致する。もはや教育は投資ではないと言われるようになって、いまや確実に、子の教育は親の消費スタイルに強く影響されるようになったと思う。投資ではないから教育に金をかけるのはばかげているという嗜好と、もともと教育に金をかけるのはあたりまえの消費であるという嗜好は噛み合わない。もともとその都度の圧力に応じた付け焼刃の連続である今の教育改革は、まことに確実に、個人の生き方に対する教育政策の影響力を劇的に低下させていくであろう。苅谷先生は、いずれの側も「べき論」に偏って(ワタシも含まれそうだ(^^;)、普通の教師が、普通に仕事をして実現できる段階から出発して理想に向かう教育を求めていないところに、この幻想の頑迷さを見ている。改革の処方箋は率直である・・・そして決して実現されないであろう。

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J.G.バラード 『コカイン・ナイト』 (新潮社)
 閉鎖的なコミュニティにおける犯罪の意味、とくれば『殺す!』と同様のモチーフなのだが、本作は量的にも質的にも『殺す!』を凌駕した、というよりは『殺す!』は本作のためのエテュードだったのではないかと思わせる出来である。チャールズがフランクの役割を演じ始める辺りから、おおむねの結末は予測できてしまうのだが、最後の悲劇の内容には、私にはちょっぴり意外性があってうれしかった。いずれにしても、人物や出来事の書き込みはバラードらしいただならぬ執拗さがあるし、いわばヴァーミリオン・サンズの退廃を現実化したようなコミュニティ論としても興味深く、読み応えのある作品であった。

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山本英明 『塗師屋のたわごと』 (角川ONEテーマ21)
 この本は、鯖江で塗師屋(ぬしや)、つまり越前塗の漆職人を営む著者が、漆器作りについて、また漆器作りを通じて見える世の中について語ったもの。技を極めながら伝統に頼ることを嫌い、贅沢ではない豊かさを語り、正しいと思ったことはきっちりと行動し、しかし折り合いのつけ方を知っている。漆のことはもちろんだが、他にも目からうろこが落ちるようなひとことがちりばめられていて痛快だった。福井弁の文章が懐かしくうれしい。とかなんとか言っても、著者に言わせれば、答えを出すな、感想も出すな、要約なんかしない方が良い、ということになるだろうが。ところで私の父は福井の人間で、祖父母は鯖江にいた。その実家からもらった越前塗の上等な重箱が、先日どこへ片付けたものか見当たらなくて、夫婦でやきもきしているのだが、著者によると次の代になったらその人が気に入ったものを手に入れればよい、ということで、まあちょっとこれは言い訳になるかもと思ったのだが、・・・よい物をきちんと使うことの大切さもわかったから、も一度きちんと探してみなければ・・・。

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アメリア・アレナス 『人はなぜ傑作に夢中になるの』 (淡交社)
 これは美術評論になるのだと思うが、読み物としてたいそう面白かった。アルタミラの洞窟画、ミロのヴィーナス、モナリザからムンクやピカソまで、14章のオムニバス。軽妙で闊達な展開が痛快そのものである。アルタミラの洞窟画が認められるまでのさんざんな経緯のあげく、何のための絵画かという問いには「ほんの思いつきで描いた」というのがもっとも信じたい仮説であるという結論には、激しく同意したくなる。現代美術との対照も面白い。皮肉やユーモアも気が利いている。自由に芸術を楽しむことは、過去に埋没することではない。ウォーホールの「傑作とは複製にしたときに見栄えのするもの」という至言の紹介や、自由の女神の象徴するものについてのオチなどは、過去の芸術が現代や未来を考えさせる絶好の素材になることを教えてくれる。

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ニール・スティーヴンスン 『ダイヤモンド・エイジ』 (早川書房)
 「98年の翻訳SFではマイベスト」と紹介した前作『スノウ・クラッシュ』は痛快な面白さだったが、本作はよりスペキュラティヴな傾向を強めた大作。近未来の上海周辺を舞台に、人種や思想によって分立するコミュニティの存在にナノテクが絡む状況設定に、少女の成長物語が重なる。哲学や教育がテクノロジーとコミュニティの文脈に展開する、これは新時代の教養小説、あるいは21世紀の『エミール』かもしれないのである。とはいえサイエンスにアクションにアドヴェンチャーにセックスと、エンターテインメントの要素はすべてつぎ込まれているから、もちろん一流の娯楽小説であるのは当然の前提である。二段組500ページ超、たっぷりと楽しめる。

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網野善彦+宮田登 『歴史の中で語られてこなかったこと』 (洋泉社新書)
 何が語られていないか、ということは、語りのイデオロギーをもっともよく指し示すものであるといえるだろう。副題は「おんな・子供・老人からの日本史」だが、それにとどまらず、幅広い内容について語られている。稲作至上主義の「常識」を徹底的に批判する網野史学の面白さに、惜しくも急逝された宮田民俗学の視点が呼応して、人々の生活の厚みを描き出そうとする、奥深く発見豊かな対談集である。教科書問題にも少し触れているが、どうせならこれを教科書はともかく参考書にすれば、歴史教育は面白くなりそうだ。

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池田龍夫 『新聞の虚報・誤報』 (創樹社)
 著者は定年退職後の現在はフリージャーナリストだが、新聞記者を長く勤め、整理部を経て紙面審査にかかわってきた、新聞業界内部にいた人。それだけに、新聞社が虚報や誤報をどのようにして産出してしまうのか、構造的な側面からわかりやすく説明されている。一つ一つの事例に深く踏み込む内容ではないから、たとえば当事者や被害者について取材したり新事実を示したりしているわけではなく迫力には欠けるが、反面、虚報・誤報の歴史や主な新聞社の対応が丹念に批判されているので、私のようなマスコミの素人が問題の所在をつかむためには格好のテキストブックである。また自社の問題点を鋭く問う終章も興味深い。その視点は私も大いに共感するが、この時代に新聞がメディアとして生き残れるのか、依然として混迷は深いというべきであろう。そしてその混迷は、新聞はもとよりメディアに限った問題ではなく、実は情報サービスという点では学校にも共通した問題が示されているとも言えることに気づかされた。

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リー・ストリンガー 『グランドセントラル駅・冬』 (文芸春秋)
 成功者、それも主に経済的な分野での経営者の本は多いが、そうした本の面白い部分は、あまり金儲けの役には立ちそうにないところであることが多い。つまり彼がとんでもない子供時代を送ったとか、なんらかの決定的なトラブルを抱えていて、しかもそういうことをまったく乗り越えられていないというようなたぐいの話である。もちろん同じような境遇のほとんどの人は成功者にはなっていないはずである。また如何にトラブルを克服したかというような本は、人の役に立つのかもしれないが、私にはまったく面白くない。
 その点本書の著者は、高校を出てさまざまな職業を経た後に、なんとかデザイン事務所を軌道に載せたにもかかわらず、ビジネスパートナーを失いクラック中毒のホームレスになってしまった男であるから、ヘンに欲を出して勘違いしないで、その言葉を素直に受け止められるのではないか。彼はホームレスたちで作って売る新聞『ストリート・ニュース』に関わるようになり、やがて書いたものが認められて本書を執筆するまでにいたるのだが、執筆をはじめた時点ではまだドラッグを止められていなかった。そのことでも分かるように、彼がホームレスであることと、彼の書くものの値打ちとは、たぶん直接関係のあることではない。彼がたまたまホームレスであったために、彼の切り口によって料理される素材がホームレスにかかわりの深いものになっているということである。もちろん、ストリートならではの、切実で危険なエピソードも持ち味のひとつではあるのだが、そういうルポルタージュならいろいろあるだろう。しかしそうした出来事についての著者ならではの洞察が深いのである。ホームレスを助けるためには何でもしたいが、ホームレスではないのに助けを求める人を見ると腹が立つ、という意見に対する答えや、ドラッグやアルコールの常用者には要するに何があって何がないのかという説明など、まさに目からうろこが落ちる。

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